「死」を見つめてとはなにやらいきなり重い話題ですが。

「犬死に」という言葉があります。無駄な死と一般に解釈されています。

人の死に対する解釈は人それぞれです。しかし、その解釈が人の死に価値をつけます。


感情を逆撫でするするような例ですが

自分の過失で自分の子供が亡くなってしまったようなケース。

これ以上の悲しみと罪悪感はないでしょう。本当に苦しいと思います。
おそらくほとんどの方が生涯自分を罰し続けようとすることでしょう。

自分を罰しなければいてもたってもいられないほどの辛さ。
苦しみから抜け出すために自分を罰し続ける矛盾した心理です。


さてここで、亡くなった方の「死の意味」について考えてみましょう。

一人の死が他人(家族)を不幸にしたとすれば、その死は犬死より酷い無駄な死を通り越して罪な死です。

子供を亡くして親が不幸になる。
それでは亡くなった子供の存在の意味が悪以外になくなってしまいます。

死の意味を決定づけるのは生きる人たちの思いです。
子の死をきっかけに、同じ過ちをしないように周りに啓蒙活動をする。あるいは同じ悲しみを抱えている方を救う活動をする、等々。その死をきっかけに周りの意識が変わるなら、その死は意味を持ちます。

けして犬死にではなく。価値のある死と言えるでしょう。


もちろんこんなことを言っても、当事者簡単に心を変えることは出来ないかも知れませんが


車がメチャメチャになりながらもかすり傷程度で済む人。ちょっとした段差でつまずいて転んで死んでしまう人。このような例を目の当たりにすると人の寿命は決まっているように思います。

だとするなら、その時の死は避けられません。その死に意味をつけるのは他でもない生きている私たちです。

人の死を、悲しいだけにとどめておかず、その現実の中から前向きな意義を見いだすことが、亡くなった方へその存在を肯定することだと思います。


もし、誰かの死でやりきれないほど悲しんでいるならそれは罪な死になってしまいます。

生きている者だけが「意義のある死」に変えることが出来ます。


自分が死んだ後、意義のある死になるのか?罪な死になるのか?
気にかかるところです。